
2022/04/18 オプチャ聖書部の質疑応答を元に編集
聖書は素晴らしい文学である
聖書は確かに素晴らしい文学です。しかし文学は聖書の最も重要な属性ではありません。聖書は神の言葉、真理を啓示する書として、人類の由来と終末、そして現在どう生きるべきかについて記されています。
文学は人生そのものである
あえて文学の視点から考えてみましょう。
夏目漱石は『野分』で、「文学は人生そのものである」と言いました。『野分』が定義する文学なら、聖書は確かに最高の文学です。
夏目漱石は更にこう続けます:
文学は苦痛にあれ、困窮にあれ、窮愁にあれ、凡そ人生の行路にあたるものはすなわち文学で、それらを甞め得たものが文学者である。
夏目漱石『野分』

文学者は、そうではない人と比べ、より多く人生の苦痛や窮乏や悩みを経験した人であるなら、さぞつらいことでしょう。そして、文学者や哲学者に自殺する人が多いのも事実です。満足を得たからもう死んでもいいと言って死ぬ人は極めて稀でしょう。たいていは虚しさや悲しさなど、消極な気持ちを抱いて自死するのです。
人生はしばしば「ぼんやり」している
自死した文豪、芥川龍之介は『或旧友へ送る手記』の中でこう綴っています:
僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考えつづけた
『或旧友へ送る手記』
更に、死ぬ理由についてこう綴っています:
何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である
『或旧友へ送る手記』
この「ぼんやりした不安」はいったいなんなのかは謎に包まれたままです。本人が明言していない、本当の理由に迫ろうと考察する人もいますが、理由はどうであれ、明るいものではありません。
聖書は人生の「ぼんやり」を解決する
聖書は文学を超える存在であり、人生の意義に対して明確な答え(フェア議論のためにここではそれを真理とは断言しませんが)を提示しているため、人に生きる喜びを与えます。
誤解がないように、明示しておきますが、聖書は多くのライフスタイルの一つとして、クリスチャンとして生きる選択肢を与えているのではありません。語弊を恐れずにいうなら、初めから存在していた唯一の正解を教えてくれているのです。
聖書は「著者目線」で読むもの
おおよそ人は自己中心ですから、自分の人生にどう役に立てるかという基準で、物やサービスを剪定し、友を選定し、仕事を選定し……
自分目線です。
信仰でさえもその視点で選定する人が多くいます。クリスチャンになることで自分にどういうメリットがあるのか?
携帯のキャリアを選ぶように、どれを選んでも実益があり、それぞれのニーズが満たされるキャリアを選んで、それぞれ満足すれば良いのではないか。これが自己中心であり、人間目線です。
物質的な繁栄を求めるご利益主義はもちろんのこと、より優しい自分になりたいという願望でさえ、独りよがりです。
クリスチャンになれば、精神的な拠り所があり、迷った時道標を得られ、困難な時に挫けない、これですら自己中心です。そもそも、聖書は「人間救済」のためではないからです。「人間救済」はあくまでの「手段」ではあり「目的」ではないからです。
ですから、聖書に立ち返って、神目線で読み直すと違った世界が見えてきます。
聖書を文学として、著者を置き去りにして、自由に解釈して読むのか、聖書の本当の著者である神の意図を深く知って、神と共鳴して読むのか、あなた次第です。
文:ジョシュア
部員のコメント
Kenさん
ありがとうございます。勉強になりました。哲学書や文学書は限界があり、本当の意味で私達を指針する書物ではありません。それを超えた不可思議な世界に意味を与えてくれるのが聖書だと思います。人間の力を超えたところに眼を注ぐそこに救いがあると思います。