聖書通読|ローマ書13日目|7章前半(1〜6節)

2020年6月29日分の通読です。今回はローマ7章の前半です。パウロが比喩を使ってとても意味深いことを言います。「前夫」の律法が死んだので、「やもめ」の信者はキリストの「妻」となり、神のために実を結ぶことができるようになった。どういう意味だろう?

聖書朗読

ローマ書7章1〜6節、口語訳です。朗読者はいつものやさしいお父さんの声ですよ。

聖書本文

ローマ人への手紙‬ ‭7章1〜6節| ‭口語訳‬‬
それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。 すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。 であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。 わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。 というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。

導入の言葉

マスカットさん:

おはようございます☀
ローマ7章の例えは興味深いですね!

「前夫」の律法が死んだので、「やもめ」の信者はキリストの「妻」となり、神のために実を結ぶことができるようになった。

ぽんかんさん:

クリスチャンになって最初の数年間
この章は全く意味不明でした。
たぶんほかの皆さんも分かりにくいと感じておられるかもしれません。
ゆっくりじっくり味わいましょう。

みんなが「簡単」とか言い出したらどうしよう((( ;゚Д゚)))

ゆばさん:

さん安心してください、私はさっぱりです😭

オリーブさん:

安心って🤣

質疑応答

質問①:7章2節、夫は律法で妻につながれてないんでしょうか?

ブルーベリーさん:

ローマ7章2節
すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。

⬆️夫は律法で妻につながれていないんでしょうか?

ドリアンさん:

最初の夫は、古い人のことです。わたしたちは本来は神の妻の地位でしたが、夫の地位を強奪して古い人になりました。この古い人はキリストの十字架で共に死にました。わたしたちはもはや古い人に縛られる必要はありません。新しい夫であるキリストと結婚して妻の地位に戻るのです。

ブルーベリーさん:

夫は神なので、律法にはつながれてないって事になりますかねー?

ドリアンさん:

夫は神ではないですよ。古い人です。

ブルーベリーさん:

新しい人にとって、夫が神。
神は律法につながれていない...という事でしょうか。

ドリアンさん:

わたしたちは、妻として古い人である最初の夫にはもはや繋がれていないということです。新しい人であるキリストは、律法を成就する方です。

質問②:7章4節が言う「律法に対して死に、よみがえらされた方のものとなり、神に実を結ぶ」は何を言っているのでしょうか?

ブルーベリーさん:

ローマ7章4節
わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。

⬆️何を言っているんでしょうか???
たぶんマスカットさんの今朝の発言の話なんだろうと思いますが、それがどういう意味なのかも分からず・・・。下記にコピペ:

「前夫」の律法が死んだので、「やもめ」の信者はキリストの「妻」となり、神のために実を結ぶことができるようになった。

ドリアンさん:

神の創造において、人の本来の地位は妻の地位でした。イザヤ書54章5節は、わたしたちの造り主である神はわたしたちの夫であると言っています。

なぜなら、あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主はイスラエルの聖なる者、全地の神と呼ばれているからだ。"
イザヤ書 54章5節

こうして、神の創造によれば、人には妻の地位がありました。神に対する妻として、わたしたちは彼により頼み、彼をわたしたちのかしらとしなければなりませんでした。これがわたしたちの本来の地位でした。

人は堕落した時、別の地位、古い人が自ら取った地位を取りました。堕落した人は夫の地位を取りました。神に創造された人は妻でした。堕落した人は夫になりました。夫の地位を取って、堕落した人は神から独立し、自らを夫としてのかしらとしました。堕落した人たちの間では男も女も、自分を夫と考えています。多くの妻は言いました、「なぜわたしは夫の下にいなければならないのでしょう?彼がわたしの下にいるべきです。なぜ彼はカシラであるべきなのでしょうか?私はかしらになりたいです」。こうして、堕落した人は強く醜い夫になりました。

堕落した人が夫になることを願ったので、神は彼に律法を与えられました。律法は妻のためにではなく、堕落した夫のために意図されます。こうして、この律法は古い人の律法、夫の律法となります。しかしながら、神は、古い人が律法を守ることを意図されませんでした。なぜなら、古い人はそれを守ることができないからです。律法が与えられたのは、古い人が暴露されるためでした。人々は、神は人に律法を与えてそれを守らせようとされたと考えて、大きな間違いをしています。その反対に、神が人に律法を与えられたのは、人がそれを破るためであり、それを破ることによって、完全に暴露されるためです。もし律法を守ろうとするなら、あなたは間違っています。もし律法を破るなら、あなたは正しいです。律法が与えられたのは、人がそれを守るためではありません。それが与えられたのは、人が破るためです。

ブルーベリーさん:

律法を破ったら正しい?

律法は罪を罪として認識する為のもの...というのは、今までの通読で理解しました💡
でも律法を破ったら正しいというのは、腑に落ちてません。

ドリアンさん:

律法はいわば、リトマス試験紙のようなものです。ここにある液体があるとします。見た目は透明で水のようです。でもそこにリトマス試験紙を入れてみると、すぐ分かります。青色のリトマス紙が赤に変わったら、酸性ですし、赤色のリトマス紙が青に変わったら、アルカリ性で、何にも変化がなかったら、それは中性であることを意味します。わたしたちは自分たちが罪深いことがわからなず、義しいと思っているので、神はわたしたちにリトマス紙を近づけて、「ほら、変化したでしょ?」と言っているのです。つまりこのリトマス紙こそが律法です。

ブルーベリーさん:

リトマス紙が変化しなければ正しいという事ですよね?
でも、律法を破ると正しいというのは...イマイチ分かりません。
咀嚼足りないですかね😋✨

ドリアンさん:

律法を破るということは、色が現れることですよ。無色透明ではないということですね。正しいと言うのは、正しい結果が現れた。と言うことです。

ブルーベリーさん:

え??🤔
律法を破る=罪の認定をされる=正しい?

ドリアンさん:

わたしたちは生まれつき罪人なので、当然律法を破るのです。AだからB。日本人だから日本語を喋る。正しいですよね。赤ちゃんだから、ミルクを飲む。正しいですよね。正しいという言葉の響きに騙されてはいけません。当たり前という意味です。

ブルーベリーさん:

完璧に騙されてましたね🐣

ぎんなんさん:

@ドリアンさん
律法を破って、神そのものの言葉を信じることに気づかせるためでしょうか?律法とは、ユダヤ教のものではなかったのでしょうか?

ドリアンさん:

@ぎんなんさん
律法はユダヤ教のものというか旧約聖書にあります。ということは、必然的にキリスト教にもあります。

"わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。まことに、あなたがたに言います。天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。ですから、これらの戒めの最も小さいものを一つでも破り、また破るように人々に教える者は、天の御国で最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを行い、また行うように教える者は天の御国で偉大な者と呼ばれます。"
マタイの福音書 5章17~19節

ドリアンさん:

ローマ7章7節によれば、律法によらなければ、わたしたちは罪を知らなかったでしょう。この節でパウロは、律法が「あなたは貪ってはならない」と言わなかったなら、彼は貪りを知らなかったと言っています。要するに、律法が働くのは違犯が満ち溢れるためであると言って良いでしょう。ひとたび違犯が満ち溢れると、律法はそれを罪として暴露します。このようにして、律法はわたしたちを罪の知識へ導きます。

ブルーベリーさん:

ムムム...。
続きがあるかなぁ?

ドリアンさん:

ありますよ。まだ古い人の話しかしてませんから。

再生された新しい人の地位は真の妻の地位です。再生はわたしたちの本来の地位を回復します。ローマ7章2〜3節に出てくる初めの夫は肉や律法ではなく、6章6節の古い人であり、それはキリストと共に十字架につけられました。わたしたち信者が救われたのち、二つの身分〜古いものと新しいものを持っています。堕落のゆえに、わたしたちは古い身分を持っています。再生の故に、わたしたちは新しい身分を持っています。堕落の故にわたしたちは古い人であり、再生の故に新しい人です。古い人として、わたしたちは夫でした。新しい人として、わたしたちは妻です。ですから、わたしたちには二つの身分があるのです。

"ですから、私の兄弟たちよ。あなたがたもキリストのからだを通して、律法に対して死んでいるのです。それは、あなたがたがほかの方、すなわち死者の中からよみがえった方のものとなり、こうして私たちが神のために実を結ぶようになるためです。"
ローマ人への手紙 7章4節

この節で、パウロは安息集会(葬式)と結婚式を一緒にしています。一方で、わたしたちは葬られました。もう一方で、わたしたちは嫁ぎました。わたしたちは死なせられてたの人と結婚します。ローマ7章4節でわたしたちは死んで結婚します。もしわたしたちが二つの身分を持たなかったら、どうしてこれが可能でしょうか?わたしたちは古い身分にしたがって死なせられ、新しい身分にしたがって他の人と結婚します。わたしたちの新しい身分によれば、わたしたちは死人の中から復活させられた彼と結婚しました。それは、神に対して実を結ぶためです。

質問③:7章5節の「罪の欲情」が肢体のうちに働いていた=サタン(肉の欲情)ですか?

ブルーベリーさん:

ローマ7章5節
というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。

⬆️この部分、
罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして...というのは、神から見た視点ですよね?
神から見たら罪は死に値する。罪の欲情が肢体のうちに働いていた=サタン(肉の欲情)?
という解釈でしょうか??

ドリアンさん:

わたしたちが肉の中にあった時〜すなわち、古い夫であった時〜わたしたちと関係のあるすべては死でした。わたしたちが生み出せるものは全て市でした。わたしたちがもたらしたものはすべて死の実であり、死に至らせる実でした。今や再生された人として、〜すなわち、妻として〜、わたしたちは神に対して実を結びます。これは、わたしたちが今行うすべてが神と関係があることを意味します。以前、わたしたちが何であっても、何をしても、死でした。ですから、これらの節で、死と神との、死に対して実を結ぶことと神に対して実を結ぶこととの、明確な対比を見ます。これは、わたしたちが古い人、古い夫であり、律法の下に縛られていて、わたしたちであること、行うことがすべて死であったことを証明します。その結果は死に対する実でした。新しい人、妻として、新しい夫に嫁ぎ、わたしたちであること、行うことはなんであれ、神と関係があります。わたしたちは神に対して実を結びます。

ブルーベリーさん:

私の解釈自体は、あながち間違いでも無いのでしょうか??

派生:新しい人の行う事は、神と関係があり神に対して実を結ぶ...神に対する実って、例えばどんなものでしょうか?

ドリアンさん:

ちょっと違いますね。神から見た視点というより、わたしたちが天然の領域で行うことはすべて死という結果になるということです。

<派生について>
それは、神が出てこられること、神が実として生み出されることを意味します。こうして、わたしたちであること、行うことはすべて、生ける神とならなければなりません。わたしたちは神の満ち溢れたものとして、神を生み出さなければなりません。このようにして、わたしたちは生ける神をわたしたちの実として持ち、神に対して実を結ぶのです。もっとわかりやすく言えば、わたしたちが行うこと、わたしたちの存在それ自体で、神を表現するものとなるということですね。

ぽんかんさん:

文脈全体から読み返すと分かりやすいと思います。
7章に入る直前を読み返してみましょう。

罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。"
ローマ人への手紙 6章 20〜23節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

ブルーベリーさん:

神に対する実とは、永遠のいのち?
でも肉体的には亡くなりますよね?永遠のいのちって、死んでるけど見えないだけで生きているという事ですか?
それとも復活する時があるから...という意味での一時的な肉体の死であって、永遠のいのちを得ているという事になるんでしょうか?

ドリアンさん:

わたしたちが今持っている命は仮初(かりそめ)の命、いわば本物のイミテーションに過ぎません。本物の命こそが神の命、永遠の命と言われるものです。

ブルーベリーさん:

【神に対する実とは、永遠のいのち?】について。
@ドリアンさん 仮初めの命の為と思うと虚しくてならないですか??

その為に、一生懸命生きてると思うと、どう穴埋めすれば良いのか?と思ってしまいました。

ドリアンさん:

そうかな?今わたしたちが生きているこの命はせいぜい100年ぐらいでしょう。でも少なくても次の1000年王国では、人は1000年生きますし、その次の新エルサレムでは終わりがないですよ。どちらを好みますか?

ドリアンさん:

わたしは中学、高校と6年間寮生活をしていました。もちろん男子校です。ルカさんがおっしゃっているのは、この6年間にフォーカスすると一生懸命、山奥で、リア中もなく、勉強だけに励むのは虚しいということですね。でもこの6年間をどう過ごすかが、あなたの行ける大学も決まるし、もっと言えば、これからの人生がどうなるか決まるということなのです。

オリーブさん:

中学高校を山奥でリア充もなく!

がんばりましたね!
そうだったんですね!

ブルーベリーさん:

@ドリアンさん 【山奥6年間の寮生活について】
私は逃げてしまうなぁー。
先を読んで苦難に立ち向かったのは、素晴らしい経験だと思います✨
だから私の質問に対して、こんなにも真摯に答えてくれるんですね😢
ありがとうございます🐥

では私はどうか?
自分が長生きする事が出来ないのであれば、この頑張りは何になるんだー?!😭
と思ってしまうのです。

ドリアンさん:

今この命をどう生きるか?たとえ仮初の命であっても、疎かにせず、自分のためではなく、神のみこころを前進させるために生きるかを、聖書では問われています。苦しいことだけではなく、また褒賞も用意されています。

ブルーベリーさん:

褒賞が用意されているんですか?!✨
と、飛びついて聞いてみます(笑)
どういう事ですか?

ぽんかんさん:

ありますよ。
例えばマタイ5:12、46、6:1、第一コリント9:25、第二テモテ2:5、4:8。

使徒パウロはよく競技に例えますが、勝った人にはご褒美があるわけですね。

せっかくクリスチャンになったからには、神との交わりと人を神との交わりに導くことと、この二つを人生のメインに据えたいなあと思います。どこまでできるかわからないけど、自分に与えられた分を果たせば褒賞がもらえるかもしれない。

ブルーベリーさん:

なるほど、そういう志も素敵です✨

オリーブさん:

【一生について】

「われらのよわいは七十年にすぎません。 あるいは健やかであっても八十年でしょう。 しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、 その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。われらにおのが日を数えることを教えて、 知恵の心を得させてください。」
‭‭詩篇‬ ‭90:10, 12‬ ‭口語訳‬‬

ブルーベリーさん:

まさしく、その通りだと思います✨

 

以上。7章前半の通読でした。まだ結論が出てないところもありますが。今後の展開にご期待ください!