聖書通読|ローマ書12日目|6章後半(11〜23節)

2020年6月21日の分です。

聖書朗読

朗読は6章全部で、新共同訳です。

聖書本文

‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭6:11-23|‭新共同訳‬‬
このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、 罪から解放され、義に仕えるようになりました。 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

質疑応答

質問①:6章11節「神に生きる事を認める」ことが怖いです。みなさんの体験談をお聞かせください。

ブルーベリーさん:

今日は特に、聖書部の皆さんのご意見、体験談含めてお話を伺いたいと思います😊

ローマ6章11節
このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

⬆️@ドリアンさん
昨日、≪一度キリストが入ったら出ていかない≫という話でした。でも内側にキリストを持っている人がクリスチャンともおっしゃられましたね。持っている持っていないの違いについては触れませんでしたが、この6章11節がいうように認めていないと、内側にキリストを持っているとは言えないですか?

また罪に対して死んだ者となるのは抵抗感ないですが、神に生きる事を認めるというのが自分じゃなくなる感じがして抵抗感あります。皆さんは、どうやって受け入れてるんですか??

ドリアンさん:

自分がキリストを持っている人か持っていない人は、当然自分自身が一番よく分かりますし、相手がキリストを持っている人かどうかは、話をしていると何となく分かります。雰囲気でもわかります。

罪に対して死んだ者となることは問題ないとのこと。素晴らしいですね。

キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認めることは、自分自身じゃなくなるということでしょうか?

あなたが自分自身と思っていることは、自分の生まれながらにして持っている天然の思いや趣味、嗜好などを否定して、神に生きることが自分自身を生きることではないように感じるということでしょうか?

実は、自分の生まれながらにして持っている天然の思いや趣味、思考などこそが、罪の性質から出たものなのです。

ブルーベリーさん:

そうです、趣味嗜好を否定すると自分では無くなると感じます。
まさか趣味嗜好が罪から来てるなんて信じられません・・・

そうです、趣味嗜好を否定すると自分では無くなると感じます。
まさか趣味嗜好が罪から来てるなんて信じられません・・・

マスカットさん:

神に生きるイメージ、僕なりの理解ですが。(父権社会みたいな発想に聞こえたらすみません)。女性は結婚したら主人に合わせるでしょう。今まで自分の好きな料理を作って食べてたが、結婚したら主人が何を食べたいかを聞いてそれを作る。それが、神に向かって生きることです。

趣味を持つこと自体は悪いことではありません。それが夫との夫婦生活の基礎の上におけるものかどうかの問題だと思います。夫に隠れてのこそこその趣味はよくありません。夫との一緒に楽しめる趣味は麗しいです。クリスチャンにとってキリストが全てですから、全てはキリストありきです。

ブルーベリーさん:

分かりやすい例え話を用いていただいたので、@マスカットさんの理解している事がよく分かりました✨
ありがとうございます🐥

やはり、その...神に生きることを認める...ここが非常に難しいですね。感覚的なものなんでしょうね。

あんずさん:

@マスカットさん
マスカットさんのイメージはしっくり来ました。旦那さんを奥さんが愛しているから、合わせたりどんなものを望むかを聞いて、ご飯を作る。信仰者の場合は旦那さんが神様になり、どう生き、歩むべきかを神様に問う、という感覚になるのでしょうか。こういう解釈であっていますか?

ブルーベリーさん:

私も同じ解釈になりました。

マスカットさん:

おっしゃる通りです。夫も妻も、霊的に旦那さんが神様になります。お互い神様と関係がよくなればなるほど、お互いの関係がよくなります。相手に焦点を当てれば当てるほど、なぜかうまくいきません。相手に対する期待からくる失望というか、そういうことでつまずいたりもしますよね。

自分の経験ですが、聖書を読んで啓発されたあととか、教会の兄弟姉妹といい交わりができたあととか、妻のことがすごく愛らしく見えるのです。錯覚とかではなく、

ドリアンさん:

以前やったマルコによる福音書の通読箇所からです。

マルコの福音書 8章32~37節

イエスはこのことをはっきりと話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。「下がれ、サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」それから、群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら、何の益があるでしょうか。自分のいのちを買い戻すのに、人はいったい何を差し出せばよいのでしょうか。

これは何も自殺しろとか殉教しろとか言っているのではなく、自分の命すなわち「魂の命」つまり天然の命のことを言っています。ここでは三つのことが互いに関係し合っています。それは、「思い」「自分」「魂の命」です。思いは自己の表現であり、事故は魂の命の具体化です。魂の命は自己の中に具体化し、自己によって生かし出されます。わたしたちの自己は、思い、思想、観念、意見を通して表現されます。わたしたちの自己は、思い、思想、観念、意見を通して表現されます。思いを神の事柄にではなく、人の事柄につける時、わたしたちの思いは自ら行動し、それ自身を表現する機会を得ます。これが、ペテロに起こったことでした。ですから、続く主の言葉は、ペテロが「自分」を否まなければならない、自分の魂の命を救うのではなく、それを失わなければならないと言われたのです。魂の命を失うことは、自己を否むことの実際です。これが十字架を追うことです。

神を第一とせず、自分を第一とすることこそが罪ですから、罪に対して死んだ者とは自分自身を愛することから救われる者になるということです。

果たして、それは自分自身ではなくなるということでしょうか?逆に言えば、救われたクリスチャンは、自分自身ではなくなっているのでしょうか?

わたしについて言えば、天然の罪の思いから救われて、自由であると思っています。これは何をしても自由の自由ではなく、罪から常に引っ張られていることのない自由感です。この中で表現するわたしは、キリストと共にあるわたしです。これこそが神の創造の目的にあるわたしだと思っています。

ブルーベリーさん:

激ムズのお話でした。
時間かけてじっくり読ませて下さい💧

しかしWEB会で...何だったかな。肉・魂・霊だったかな?何が違うか教えてもらいました。
メモ📝✒️出来なかった(TдT)
その話に似ている気がしました。

自己が死んでいるとは思ってなくて、神と共にいると言うべきか本来の自分らしくあれる。
きっと、そういう感覚なんですよね?

ぽんかんさん:

経験的に言うと自分から神に合わせてるというよりは、自然とそうなってく感じがします。
私は以前は映画をたくさん観ました。クリスチャンになってからしばらくはそうでしたが、何となくだんだん映画への興味が薄らいでいって、うまく説明できないんですが、映画を観る必要がだんだんなくなっていくというか・・・

私は二十歳前後で体質が変わったらしく、アトピーがおさまったりなどいろいろ変化がありましたが、食べ物の好みも変わりました。青年からおっさんになる頃にまた体質が変わったらしく、また食べ物の好みが変わりました。

ちょうどそんな感じで、あるときはだんだんと、あるときは急激に、好みが変化して、振り返ってみたら以前とはだいぶ変わってしまってる・・・

という感じです。

似たもの夫婦といいますね。外見的にも似てくる夫婦もいます。うちは違いますけど。でも考え方は似てきますね。楽です。

ドリアンさん:

似たもの夫婦といいますね。外見的にも似てくる夫婦もいます。うちは違いますけど。でも考え方は似てきますね。楽です。

ブルーベリーさん:

自然と神に寄っていく...という事ですが、それが怖くないのかな?と思うわけです。
神を認めて神に生きるというのは、自分が無くなりそうなんで抵抗感があるわけです。

そういう抵抗感は、皆さんには無かったのかな??

ぽんかんさん:

名古屋の平和公園ってところに、珪化木(けいかぼく)というものが展示してありました。
要するに木の化石です。見た目は木ですが、触ると完全に石です。木が地中に埋まって、植物の組織内の成分が石の成分に置き換わっていって、姿形はそのまま、でも材質は石になるわけです。

陽気な人は陽気なまま、せっかちな人はせっかちなまま要するにその人の人柄はそのままなのに、でも変わっていきます。

聖書に「変えられていく」とか書いてあって、どんなのかわからなくて不安になったことが私もありましたが、心配する必要はないとわかりました。


珪化木の写真(Wikipediaより)

ブルーベリーさん:

木が石になったら、木じゃないじゃないですか。全く別物で保存状態になってるだけで、生きてないじゃないですか。

神に生きる訳ですよ??!怖い怖い。不安が増します😫

ぽんかんさん:

うーん、何て言うのかな…ニンニク食べたらニンニクのにおいがしますよね。脂っこいもの食べたら皮膚がテカテカしますよね。食べたものが体に取り入れられて体の一部になっていきます。新陳代謝的に。神の言葉を食べると神の成分が人の中に入ってきて、新陳代謝的にだんだんと変わっていくのです。

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
ペテロの手紙第二 1章 4節 聖書 新改訳2003

ブルーベリーさん:

なるほど。新陳代謝💡
これなら怖くなさそう。

マスカットさん:

@ブルーベリーさん
自分でなくなるよりも、人間が造られた本来の目的に従った、あるべき素敵な姿に戻ることだと思いますよ。アンテパスさんが言うように造り変えられていきますが、造り変えられた後の姿こそ、人間のあるべき姿なのです。それが福音です。

ブルーベリーさん:

あるべき姿・・・。
一人一人、違うんですよね?それでも、一人一人があるべき姿になっていく?

マスカットさん:

どちらかというと人間的な共通点の部分です。

自分は自分のままで、統合失調せず、洗脳もされず、脳みそも入れ替えられてない、他人の記憶の移植されてない、今までの記憶も全部ある、顔はブサイクになってないし美人にもなってない。見た目はそのままだ。変わったことといえば、よくないと思いやりたくないのにやってしまうことが減った。聖書を祈り読みしたり、主イエスに祈ったり、他の信者と交流したりすると、なぜか自然と人に優しくなれた。あと不平不満が減り、笑顔が増えた。そう言うところかな。

ブルーベリーさん:

そういう感じにならなりたいなぁ😄✨

マスカットさん:

良いことしかありません。個人的な経験からいうと、これは「不思議な日常」です。神と距離が遠いときは、夫婦喧嘩が増えます。妻の些細な仕草もむかついたりします。神と距離が近いと、妻が愛らしく見えます。別に錯覚とかピンクレンズ復活とか鈍感になったとかそういうのではなく、もちろん妻が愛らしくないというのも決してなく、自分にはそもそも完全な愛がないのです。人を愛せる神の愛が内側で働いたから優しくなれるのです。だって愛せることこそ自分じゃないもん。天然の自分は文句たらしくて人の指摘をしたがります。妻が皿洗いで水を床にこぼして、私が低いトーンで指摘したら怒られて夫婦喧嘩に発展したことがあります。今は黙って拭いて、愛してるよと言ってみたりします。結果、幸せです。

ブルーベリーさん:

ビンクレンズ復活って何だ?
ピンクレンズ検索🔍してみようって、検索したらピンクレンズ眼鏡が出てきました(笑)

マスカットさん:

あはは、恋していると、相手のこと(欠点も含め)がなんでも素敵に見えちゃう錯覚のことです。
「ピンクレンズ効果」の方がうまくヒットすると思います。

ブルーベリーさん:

なーんだ、そういう事なんですね(ぎゃはは)
いやまぁビンクレンズの眼鏡出てきたので、特別な意味は無さそうだと思ってスルーしました。
ピンクレンズ効果は、気が向いたら検索します😅

ぽんかんさん:

"私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。"
コリント人への手紙第二 3章 18節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。"
ヨハネの手紙第一 3章 2節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。"
ローマ人への手紙 8章 29節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

"だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。"
マタイの福音書 5章 48節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

あんずさん:

@ブルーベリーさん
答えになるかわかりませんが、私は生きているとどうしても自分以外の人と比べてしまうと思っています。そのひとつの基準は自分がどんなものを持っているかということだと思います。それは趣味だったり、仕事だったり、人によって違うと思いますが…
神様と共に生きることは他人と自分を比べずに済むから、神様とつながるまでに自分が持っていた不必要なものを捨てられるようになるような感覚だと認識しています。
断捨離する時って「いつかは使う」っていうし、そのいつかのせいでものを溜め込んでしまいますが、神様と共に生きるということは「いつか」っていう時の概念?みたいなものにとらわれなくなってものを捨てられるイメージです。もちろん、捨てるまでは「いつか使う時が来たらどうしよう」と感じるかもしれないけれど、捨てた後は思っていたよりもずっと楽で、より大切なものを大事に管理出来たりします。
…伝わるでしょうか?(笑)わかりにくいかもしれないです(笑)

ブルーベリーさん:

実は最近、良い調子で仕事が出来ているんですよね🐤
今までの私は、他人の行動に対して自分ならこうする!という意見を持って接していました。
だから声のトーンも暗いし、上から目線な言い方だったりしました。もちろん全てではないですよ?
ですが、本当にここ最近、誰に感謝しようかな?と思うほど、丁寧に話せるしストレスも無いんですよ✌️

不思議です。
これがいつまで続くのか不明ですが、定着すれば良いなと思ってます(承知)

マスカットさん:

それはいいですね!もしかしたら御言の効果かもしれませんよ?先程ちょうど引用しようとした箇所ですが、この節を経験されたのではと思います。

"夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自分で、しみや、しわや、そのようなものが何一つない、聖なるもの、傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。"
エペソ人5章25~27節 聖書新改訳2017

ブルーベリーさん:

これまでに何度か引用された部分ですね💡

この部分を経験したかどうかは、エペソ5:26-27が分かってないので何とも言えません🙇
せっかく用意してもらったのに。

マスカットさん:

わからなくてもまったく問題ありません。ルカさんのその素敵な状態がいつまでも続き、さらに素敵になることを祈ります(!)

ぽんかんさん:

マスカットさんのコメントの補足として申し上げます。

御言葉の水で洗われると、聖なる者になる。聖は神の神聖な性質ですね。

"私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。"
ヨハネの黙示録 21章 2節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

聖なる都、そうかエペソ5章は花嫁修行か!

オリーブさん:

創世記に戻ると、人は神のかたちに造られましたね。他の人を大切に扱うということは神のかたちに造られた他の人の尊厳を認めることですね=神を認めることになりますね。

ブルーベリーさん:

!!!そーな...ん...で すか!!?

オリーブさん:

なので、ルカさんが神に敬意を抱いておられるからストレスのない人間関係に変化しているのかなあ
と思っています😊

マスカットさん:

なるほど、他の人を大切に扱うこと=神を認めること。いい表現ですね。心に響きました。

質問②:6章21節がいうには、クリスチャンになる前に結んだ実が恥だと、わたしにはそう思えませんが?

ブルーベリーさん:

ローマ6章20-21節
あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。

⬆️クリスチャンになる前に実を結んだものは、恥になるようなものだったんですか??
私にはそう思えないのですが・・・。

ドリアンさん:

わたしたちが魂の命で行ったこと全ては、それが良いものであろうが悪いものであろうが、神の目から見たら罪です。なぜならわたしたちは生まれながらにして罪人であり、罪人が行うことは良いことも悪いことも全て善悪知識の路線であり、それらは罪だからです。だからペテロは恥であったと言います。罪は実を結ぶと死になります。ですから、わたしたちが罪の僕であったときは、義とは縁のない者であったのです。

ブルーベリーさん:

いつも基本の善悪知識の経路に戻って罪の話が...
何度もジャブパンチされてる気分です(o゚∀゚)=○)´3`)∴
なるほど、そういう事ですか。

ドリアンさん:

常に創世記のエデンの園に戻ってきますね。ルカさん素晴らしい!

ブルーベリーさん:

それは私が素晴らしいのでしょうか??
エデンの園に戻ると「もう嫌!💦また?!💦💦」ってなってますけど...

アンテパスさん:

罪から解放される道があります。
ローマ人への手紙だと8章からあとです。
実はすでにそのヒントが出てきてます。

もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。
ローマ人への手紙 5章 10節
聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

 

以上で6章が終わりました。次から7章です。