聖書通読|ローマ書11日目|6章前半(1〜10節)

2020年6月20日の分です。質問は二つでました。質問①:6章2節の「罪に対して死んだ」は4節の「死にあずかるバプテスマ」と同じことですか?質問②:6章10節「キリストが生きる」とあるが、キリストが今も生きているのでしょうか?

聖句朗読

朗読は6章全部で、新共同訳です。

聖句本文

‭‭ローマの信徒への手紙‬ ‭6章1〜10節‬ ‭新共同訳‬‬
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 死んだ者は、罪から解放されています。 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

質疑応答

質問①:6章2節の「罪に対して死んだ」は4節の「死にあずかるバプテスマ」と同じことですか?

ブルーベリーさん:

ローマ6章2節
断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。

⬆️これは、以下の【】に該当しますか?

ローマ6章4節
すなわち、わたしたちは、その【死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られた】のである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

ドリアンさん:

その通りです。
罪に対して死んだ⇄死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬らられたのです。

質問②:6章10節「キリストが生きる」とあるが、キリストが今も生きているのでしょうか?

ブルーベリーさん:

ローマ6章9〜10節
キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。

⬆️イエス・キリストの最後は、天にのぼったイメージですけど、「キリストが生きる」のは、神に生きるのだからである...生きて神になった?

イエスが死んだとき、宮の垂れ幕が上から下に割けましたよね。えっとー、記憶によればイエスは門というか幕の役割を果たしていたように思います。

でも今までの解説によれば、神の右に座っているようです。イエスは何をしているんでしょう?生きているんでしょうか??

ドリアンさん:

イエスは今も生きています。そして神の右の座に座り、同時にクリスチャンの内側の霊にも住まわれています。そしてまもなく再臨されます。彼は宇宙の支配者です。

ブルーベリーさん:

宇宙の支配者?!
私達の一般的な≪宇宙≫の意味ですか?

ドリアンさん:

そうですね。全世界の支配者とも言い換えてもいいでしょう。

 

以上です。本日の質問は割とすんなりと解決されましたね。次回は7章です。お楽しみに!