
2020年6月17日の分です。
冒頭に正しい人のために死ぬ・善人のために死ぬ・罪人のために死ぬが述べられましたね。質疑応答では、①「神に対して平和を得る」、②「希望が失望にならない」の二つの質問を中心に深掘りされました。
御言朗読
いつもの優しいお父さんの声ですよ。
御言本文(口語訳)
ローマ人への手紙 5:1-11 口語訳
(1)このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 (2)わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。 (3)それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 (4)忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 (5)そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。 (6)わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである。 (7)正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 (8)しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。 (9)わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 (10)もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。 (11)そればかりではなく、わたしたちは、今や和解を得させて下さったわたしたちの主イエス・キリストによって、神を喜ぶのである。
導入
オリーブさん:
ローマ人への手紙 5:7-8 口語訳
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
「正しい人のために死ぬ人はいない」
これどうおもいますか?
善人のためには、進んで死ぬ人もあるいはいるであろう。って
キュウイさん:
そこは私も一昨日から気になっている箇所です。
オリーブさん:
例えばクラスの中に規則を守ることを求める口うるさい生徒がいたとします。みんなソイツが正しいことはわかるけど、なんとなくうるせーとおもってます。コレ「正しい人」。
クラスの中にとてもいい奴がいて、忘れ物すると自分のを貸してくれたり、給食こぼしたりすると拭くのを手伝ってくれたりします。ソイツのためなら一肌脱ごうかって気になります。コレ、「善人」です。
キュウイさん:
なるほど、分かりやすい例えです。
質疑応答
質問①:5章1節の「神に対して平和を得る」意味は?
ブルーベリーさん:
ローマ5章1節(口語訳)
📖このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
⬆️神に対して平和を得ているというのは、どういう事でしょうか?
やっぱり、義がよく分かってないと躓いてしまいますね💧
何か抜けたような感覚になります。
通読2日目(ローマ2章16〜32節)のとき、ドリアンさんが義について説明してくださっていたので、転載します。振り返ります!💨
①義人について語る前に、まずは義について語ります。
ハバクク書第二章四節からの引用で、新約では三度引用されています。
見よ。高ぶる者は、その魂は彼の内で真っ直ぐでない。しかし、義人は彼の信仰によって生きる。」ハバクク書 2章4節
この短い文は、ローマ人への手紙全体の簡潔な濃縮です。この節には「義」「命」「信仰」があります。
義は神のもの、命はキリストのもの、信仰は信者のものです。神の福音はこれら三つの部分で建てられます。
神の義は、彼が行動される方法です。愛は神の心であり、恵みは神の要素であり、義は神が行動し、事を行う方法です。
神の義は神の律法、義、原則と関係があります。ですから、それは合法的な事柄です。法廷の仕事は、誰が義で誰が不義であるか、誰が正しく誰が悪いかを決定することです。
神はとても義で正しいです。彼は決して間違いを犯されません。しかしすべての罪人は不義で、不正で、いつも間違いを犯し、あらゆることで間違っています。神は絶対的に正しく、わたしたちは絶対的に正しくありません。
神とわたしたちとは両極端です。なぜなら、彼は正しく、わたしたちは正しくないからです。
神は「北極」であり、わたしたちは「南極」です。どうして北極が、南極と接触することができるでしょうか?どうして義なる神が、不義な罪人のために何かを行うことができるでしょうか?
この義なる神が不義な罪人のために彼の律法に従って行うことができる唯一のことは、火の池に投げ込むことです。
オリーブさん:
こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。
ドリアンさんの義に関する説明で、北極と南極ほど違う関係にあるとおっしゃってましたね
ブルーベリーさん:
はい。
オリーブさん:
今、信仰によって義とされるというのは、何処に書いてあるのか検索してました。
それを仲介し、和解させてくださったのがキリストを通して与えられた恵みなんです。
そのことに信仰を抱くことにより義として下さる。
ドリアンさん:
本来、わたしたちは罪人であっただけでなく、神の敵でもありました。キリストの贖う死を通して、神はわたしたち罪人を義とし、わたしたち彼の敵をご自身と和解させてくださいました。これは、わたしたちが主イエスを信じた時に起こりました。わたしたちは信仰によって神の義認と和解を受けました。これは神を享受するための恵みの領域へと道を開き、わたしたちを導き入れました。
ブルーベリーさん:
そうですよ!よく考えたら怖かったんです、私達は最初に罪を犯したから神が怒って火の中に入れるかもしれない💦💦と思ってたはずです。
それを思い出しました💡
ドリアンさん:
そうです。神は愛ですが、わたしたちをいい加減に赦すことはできません。なぜなら、神は義であり信実な方でもあるからです。ですから、わたしたちに神のひとり子イエス・キリストを与えました。キリストは、わたしのような不信仰な罪人のために死なれました。かつてわたしたちは敵でしたが、キリストは十字架上で彼の血を流して、わたしたちを神に和解させてくださいました。これは何という愛でしょう!神がご自身の御子をわたしたちに与えたのであれば、確かにわたしたちを害することをされません。
ブルーベリーさん:
なるほどね🐥
いきなり鶏🐔に成長しそうな位に、納得してしまいました!
これでは知ったかぶりになるので、ヒヨコのままもう一度。
なるほど~🐥
ブルーベリーさん:
神は私たちの罪をアダムの頃より許してませんでした。
キリストが神より遣わされて私達人間の身代わりとして濡れ衣を着せられて処刑された事で、私達は許しを乞うための燔祭を捧げなくて良くなりました。
またイエスが教えたのは、律法だけが義ではないということ。誰でも神を信じる事で救われるというものでした。神さまはクリスチャンを許されたので、神さまに平安を得ている=平和?
自分で考察してみました。
神に対して平和を得ている・・・ってどういう事だろう?と、ドリアンさんの義の解説を読んで考えてみました。とても大雑把なまとめにしちゃいました💧
オリーブさん:
ブルーベリーさんが一生懸命に考えていて私はホントに素晴らしいと思います。
<途中で「罪を取り除く」の話題が広がります>
マスカットさん:
ご自分で考察されたんですね!素晴らしい!旧約では罪は捧げ物によって覆われただけです。イエスは罪を覆うのではなく、取り去ります。神の御前で「なかったことに」なります。そこに違いがありますね。
●罪を取り除くのは、イエスの血ではなく、「イエスご自身」です。
ヨハネの福音書1章29節 聖書 新改訳2017
その翌日、ヨハネは自分の方にイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。
●イエスの血は私たちの罪を清めます。それは信じた後に犯した個々の単一の罪を指します。
ヨハネの手紙第一1章7節 聖書 新改訳2017
もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
●補足として参考までの説明:旧約の祭司たちは日ごとに立って、いけにえを何度も同じようにささげました。なぜなら、彼らがささげたものは、罪を取り除くことが決してできなかったからです。しかしキリストは、ご自身を罪のために一つのいけにえとしてささげて、罪を取り除かれました。ですから、彼は永遠に神の右に座られました。彼が天に座しておられることは、罪を取り除くことが成し遂げられたことのしるし、証明です。彼はそこに永久に座しておられます。ですから、彼はもはや罪のために何もする必要はありません。彼はそれを一度で永遠に成し遂げられました。彼が罪のために一つのいけにえをささげて、永遠に座しておられるのは、祭司たちが日ごとに立って、いけにえを何度も同じようにささげたのと対照的です。
ブルーベリーさん:
なるほど👏
信じたときにチャラになる。しかし信じ続けなければ、以降の罪は取り除かれないよ...という訳ですね。
ふと映画を思い出しました。
たしか【沈黙】という映画です。江戸時代、キリスト教の弾圧があった時、何度も信じては止めて懺悔して信じては止めるという事を繰返し行っていた日本人が映画で出てきます。
私が同時代にいたなら、懺悔せず信じることを止めたでしょう。
助かりたいという純粋な気持ちと、信仰への葛藤というか不純な気持ちのような気もする。
そして宣教師の人も生きることを選択し、仏教での葬儀の祭にロザリオがあったような?気持ちの上での演出か実際に持っていたのか不明です。
信じて止めてって事は出来るものですか?一度洗礼を受けた人はクリスチャンですか?
ドリアンさん:
クリスチャンの定義を教えましょう。クリスチャンとは内側にキリストを持っている人のことを言います。けっして洗礼をした人のことではありませんので、お間違えなく。
<映画の沈黙の話になります>
ブルーベリーさん:
目に見えないです💦💦
一度内側にキリストをもった人が、そのキリストを取り除いてって自由に乗換できるものなんでしょうかね???
あの「沈黙」という映画に出てくるあの日本人は、信仰的にはどういう状態なんでしょう...ずっと気になってるんですよね。
ドリアンさん:
一度入ったキリストは二度と出ていきません。出て行って欲しくても無理です。「沈黙」に出てくるのは外国人の宣教師ですね。踏み絵を踏まされますね。
ブルーベリーさん:
そう言いますよね。一度入ったら出ていかないって・・・。
つまり乗換出来ないって事になるんですかね。
はい、外国人宣教師2名が来られます。それで一生懸命活動されるんですけど、全然信念の見えない日本人男性クリスチャンとの懺悔のやり取りが何度も続くんですよね。
ドリアンさん:
踏み絵を踏むのは宣教師だったよね。遠藤周作著。
それとは別ですが、長崎に日本二十六聖人殉教地という場所があります。6人の外国人宣教師と20名の日本人信者が処刑された岡です。彼らは江戸から長崎まで処刑のため歩かされるのですが、私もクリスチャンですという日本人が新たに加わって、20名になったということです。こちらは史実です。
しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。
マタイの福音書 10章33節
ブルーベリーさん:
えっ?!26人の殉教地は修学旅行で行った気がします。
あれって江戸から歩かされたんですか?!
<ここでまた本題に戻ります>
ドリアンさん:
神はわたしたちの罪を見過ごされてきました。それは旧約においては、動物のいけにえを捧げることで、血を流し、罪を覆うキリストの予表としてです。律法は神の性質を示します。律法は義であり、わたしたちは不義であることを見せるために与えられました。いわば、わたしたちを測るメジャーの役割を担っています。神を信じる人は多いが、神が肉体の形をとってイエスとして来られたことを信じる人は多くありません。神はイエスを信じる者に永遠の命、いわば神ご自身を与え、わたしたちは神の義認と和解を受けました。
ブルーベリーさん:
「律法は神の性質」📝✒️
律法は義で、わたしたちは不義であることを見せるためにある💡なるほど、なるほど。
「神を信じる人は多いが、神が肉体の形をとってイエスとして来られたことを信じる人は多くありません。」
⬆️そうなんですか?クリスチャン多いじゃないですか、世界的には。
「神はイエスを信じる者に永遠の命、いわば神ご自身を与え、わたしたちは神の義認と和解を受けました。」
⬆️これは、どこを読めば分かりますか??聖書全体の咀嚼がいりますか?
ドリアンさん:
敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、和解させていただいた私たちが、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
ローマ人への手紙 5章10節
これでどうでしょうか?
ブルーベリーさん:
なるほど、同じことが書かれてますね✨
少し説明不足でした😣💦
どちらかと言えば、【イエスを信じるものに永遠の命、いわば神ご自身を与えた】の方が気になっていたので、@アンテパスさんの回答を受けて、納得した次第です😄✨
いつもありがとうございます♪
質問②:5章4節の「希望が失望にならない」はどういう意味?
ブルーベリーさん:
📖ローマ5章3〜5節
(3)それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、 (4)忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。 そして、希望は失望に終ることはない。(5)なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
⬆️私はやっぱり苦難は苦しいです。成長できる機会とは思えなくてただ苦しい。
信仰して鍛練すれば、苦しくとも希望が見いだせるんですか?
「希望が失望にならない」というのは、神の愛が注がれてるから希望を捨てずにいられるという事でしょうか??その希望というのは神の心(導きとか御心)なのかなぁ?だから失望にならないのかな。私だったら...ですよ?酷い苦難の時に希望を持つことは、逆に苦しくなるので手放したいって思います。
以上、ローマ人への手紙5章前半の通読の質疑応答でした。