
2020年6月15日分の通読です。
聖書朗読
いつもの優しいお父さんの声ですよ!朗読の音声は4章全部です。
聖書本文(口語訳)
📖ローマ人への手紙 4章1-11節(聖書口語訳)
(1) 「それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。(2) もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。 (3) なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。 (4) いったい、働く人に対する報酬は、恩恵としてではなく、当然の支払いとして認められる。 (5) しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。(6) ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、(7) 「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、 さいわいである。 (8) 罪を主に認められない人は、さいわいである」。 (9) さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。 (10) それでは、どういう場合にそう認められたのか。割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。 (11) そして、アブラハムは割礼というしるしを受けたが、それは、無割礼のままで信仰によって受けた義の証印であって、彼が、無割礼のままで信じて義とされるに至るすべての人の父となり、」
質疑応答
質問①:4章1節の「アブラハム」はだれですか?
ブルーベリーさん;
📖ローマ4章1節(聖書口語訳)
それでは、肉によるわたしたちの先祖アブラハムの場合については、なんと言ったらよいか。
⬆️たしか、アブラハムってだれ?律法を出した人?
オリーブさん:
アブラハム以降から割礼がはじまりました。そこから400年後、モーセを通して律法が与えられます。
ブルーベリーさん:
モーセとアブラハムを同一人物と勘違いしてました💦
ぽんかんさん:
アブラハムは新しい約束を与えられた人物ですね。律法はモーセを通して与えられています。
📖ヨハネの福音書 1章17節(聖書新改訳2003)
というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
ちなみに律法ですが、出エジプト記20章などで有名な十戒だけでなく、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のいわゆるモーセ五書全体を律法ととらえるのが一般的です。著者はモーセ。
ブルーベリーさん:
モーセは昔の人物なのに、沢山書き残しているんですねぇ📝✒️
何歳くらいまで生きたんでしょう?
ぽんかんさん:
120歳ですね。
📖申命記 34章7節(聖書新改訳2003)
モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。
申命記のおしまいの数行はモーセの死後に誰かが書き加えたと私は考えています。
ドリアンさん:
アブラハムはすべての信者の先祖です。すなわち、無割礼で同じ信仰を持つ者の先祖であり、割礼のもので同じ信仰の足跡を歩く者の先祖でもあります。
質問②:4章3節の「義と認められた」はどういう意味ですか?
ブルーベリーさん:
📖ローマ 4章3節 (口語訳)
なぜなら、聖書はなんと言っているか、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」とある。
⬆️創世記15:6に記載されているとリビングバイブルにありました。やっぱり義という部分が難しいですね。
ドリアンさん:
神を信じることは、神が繰り返しアブラハムに現れたことに対する、彼の自然な反応でした。神はアブラハムに何度も現れましたが、毎回、神の栄光、神御自身を、アブラハムに注入しました。ですから、アブラハムの信じることは実際上、神が彼に注入された要素が、内側から湧き上がってきたものです。アブラハムの信じることに対する神の反応は、彼を義とすること、すなわち、彼を義と勘定することです。この勘定することは、働きから来るのではなく、彼が神を信じたことに基づいていました。
ブルーベリーさん:
アブラハムの前に複数回、神は現れているんですね。それなら信じるのも納得。だけどそれは、霊による信じる気持ちだったんですね。だから神はアブラハムを義とされた。行いは悪くても。
質問③:4章5節の「不信心な者を義とするかたを信じる人」は誰のことですか?
ブルーベリーさん:
📖ローマ 4章5節 聖書口語訳
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
⬆️不信心な者を義とするかたを信じる人...というのは誰の事を指しますか?
ぽんかんさん:
「不信心な者を義とするかた」は神を指します。人を義か不義か裁定することができるのは神だけです。「信じる人」は神を信じる人を指します
ブルーベリーさん:
いやいや、そうじゃなくて、「不信心」というのは、「未信仰」なのでは??未信仰なのに義とされていいの?
マスカットさん:
ここの「不信心」は「不敬虔」と訳されることもあるので、行いや働きを指しているものと思います。6-8節がその説明となってますね。
5節 不信心/不敬虔
7節 不法
8節 罪
→全部6節の「行い」における欠け目を指していると思います。
ぽんかんさん:
原文のニュアンスからして、信仰は持ってるけど徹底してない状態と思います。不信心というと、未信者みたいな感じがしますね。不敬虔が適切な訳だと思います。
ブルーベリーさん:
行い/働きというのは・・・?
何の行いや働きがないって事が書いてあるんですか???
オリーブさん:
つまり、アダムの子孫で罪深い私たちは誰も完全なしかたで神にお仕えすることができない=不信心(不敬虔)
でも、主に信仰を抱くとき、義とみなしてくださいます。
ぽんかんさん:
「律法を守る行動」か「信仰」か、
という対比で話が進んでますので、行いとは律法を遵守することだと思います。
ブルーベリーさん:
まとめていただき、ありがとうございます😄✨
そうか!対比で話が進んでいたのか~🐤
オリーブさん:
【概観】
アブラハムが義とされたのは行いによるのではなく、信仰による
ぽんかんさん:
4:5も律法の遵守との対比で読めばいいと思います。
不敬虔ではあっても信仰ゼロではないわけです。
そういう人は働きがなくても義とされます。
マスカットさん:
余計分かりにくくならないといいですが…
行い/働きは人となりや道徳における完全さと捉えています。
●第一、自分は罪人であり、行いに欠け目があり、そして改善しても神の目に叶わない、絶望的です。そのことを認め、イエスが自分のために死なれたために、自分の罪の代価が支払われたことを認めれば、義とされる。
●第二、自分が頑張って自己改善して、人によくしようとすればするほど、できない自分に苦悩します(通読で後ほど登場する話しですが)、できたとしても、神から見たら、不合格です。イエスと絶えず触れ合うことによって、「気づいたら優しい自分がいた」、が目指すところというイメージです。
📖ローマ 3章23-24節(聖書新改訳2017)
すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。
ドリアンさん:
不敬虔な者を義とする方・・・神です。
を信じる者・・・アブラハムを含めたわたしたち信者のことです。
ブルーベリーさん:
ローマ4:5
しかし、働きはなくても、不信心な者を義とするかたを信じる人は、その信仰が義と認められるのである。
⬆️やっぱり、ココがわかりません!!
不敬虔な者を義とする方(神)を信じる人(クリスチャン)。
不敬虔な者を義とするって、どーゆー事ですか???
ドリアンさん:
ローマ人への手紙 4章3~5節
聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。働く者にとっては、報酬は恵みによるものではなく、当然支払われるべきものと見なされます。しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます。
神を信じることは、神が繰り返しアブラハムに現れたことに対する、彼の自然な反応でした。神はアブラハムに何度も現れましたが、毎回、神の栄光、神ご自身を、アブラハムに注入されました。ですから、アブラハムの信じることは実際上、神が彼に注入された要素が、内側から湧き上がってきたものです。アブラハムの信じることに対する神の反応は、彼を義とすること、すなわち、彼を義と勘定することです。この感情することは、働きからくるのではなく、彼が神を信じたことに基づいていました。
天然の人は常に、報酬(賃金)を受けようとして、神のために働きます。天然の人には、何の恵みも、信仰も、享受もありません。
ブルーベリーさん:
ローマ4章5節の「働きのない人であっても、不敬虔な者を義と認める方(神)を信じる人(クリスチャン)には、その信仰が義と認められます。」
⬆️分からない・・・😫
働き=行い=律法を守っているかどうか。
@オリーブさん曰く、
つまり、アダムの子孫で罪深い私たちは誰も完全なしかたで神にお仕えすることができない=不信心
でも、主に信仰を抱くとき、義とみなしてくださる@マスカットさん曰く、
【行い/働きについて】
人となりや道徳における完全さと捉えています。
●第一、自分は罪人であり、行いに欠け目があり、そして改善しても神の目に叶わない、絶望的です。
そのことを認め、イエスが自分のために死なれたために、自分の罪の代価が支払われたことを認めれば、義とされる。
●第二、自分が頑張って自己改善して、人によくしようとすればするほど、できない自分に苦悩します(通読で後ほど登場する話しですが)、できたとしても、神から見たら、不合格です。イエスと絶えず触れ合うことによって、「気づいたら優しい自分がいた」が目指すところというイメージです。
"すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、
神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。"
ローマ人への手紙 3章23~24節 聖書 新改訳2017
ちょっと分かってきた気がします🐣
マスカットさん:
分かってきたんですね!
嬉しい!(うきうき)(うきうき)
オリーブさん:
多分私たち日本人は、聖書に触れる前は罪人というと悪いことした人というイメージがあるため、
アダムの子孫がみな罪人という聖書の教えに馴染むのに時間がかかるかもしれませんね。
ブルーベリーさん:
そりゃ、罪人は悪いことをした人だと思ってますよ?
だから受け入れられないんじゃないですか💦💦
聖書に触れることも無いですからね。他の先進国とは違います😵日常に聖書なんて無いので、ビジネスホテルに聖書があったら、ビックリしちゃって恐れすら感じてしまいますもん💧
オリーブさん:
アダムの子孫はみな罪人、イコール皆不完全。
日本人でもよく言うのは、完全な人間は誰もいない。こことつながるかとおもいます。
ブルーベリーさん:
なるほど~💡💡💡
とても分かりやすい!🐥
マスカットさん:
そうそう。罪を犯したから罪人ではなく、罪人だから罪を犯すのです。
みかんさん:
この表現とても分かり易いです。自分もなぜ罪を犯してしまうのだろうとよく悩みました。この言葉で救われました。
マスカットさん:
ありがとうございます。よく聞かされてましたので、脳に焼くついてます。
質問④:4章6節の「行い」とは律法のこと?
ブルーベリーさん:
ローマ 4章6節(聖書口語訳)
ダビデもまた、行いがなくても神に義と認められた人の幸福について、次のように言っている、
⬆️行いとは律法の事でしょうか?
ドリアンさん:
律法を守ることです。神の義認は、わたしたちの良いわざ(労働)に対する報酬(賃金)ではありません。それはキリストの贖いを通して、わたしたちに無代価で与えられる恵みです。もし神の義認がわたしたちの良いわざに基づいているとしたら、あるいは、それがわたしたちの良いわざを要求するとしたら、それは、わたしたちが自分の良い技に対して受け取る賃金となります。すなわち、それはわたしたちが当然得るべきものであって、神が無代価で与えられるものではありません。
神の義認は、神の恵みに夜と認められるのですから、それはもはや行いによるのではありません。そう出ないと、恵みはもはや恵みではなくなります。わたしたちの行いは、決して、神の恵みに置き換わることはできません。神の恵みは絶対的でなければなりません。
ブルーベリーさん:
なるほど~💡💡💡
納得です。信じることで無代価で与えられる恵みなのであれば信じたいですね🐣
質問⑤:4章7節の「不法をゆるされ、罪をおおわれた」の意味は?
ブルーベリーさん:
📖ローマ 4章7節(聖書口語訳)
不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、 さいわいである。
⬆️これも何を言ってるのか、サッパリです💦💦
ぽんかんさん:
6節と7節は同じことを言ってます。
「行いがなくても」=「不法」
「神に義と認められた」=「ゆるされ、罪を覆われた」
ドリアンさん:
不法というのは、わたしたちの悪い行いを指します。罪を覆われたとは、わたしたちの罪がキリストの血で覆われたことを意味します。それは神の目に義とされることです。
オリーブさん:
行いが悪いというと、アブラハム悪い人みたいですが、アブラハムはとても良い生き方をした人ですよ。ただどんな人も、アブラハムでさえ、アダムの子孫であるゆえに、完全なよい行いをすることはできない、ってことですね。
ブルーベリーさん:
アブラハムは良い生き方をした人ですよね、きっと。
じゃないと神が現れる訳がないと思っていたけれど、完全ではないという事なんですねぇ。
質問⑥:4章9節の 「この幸福」とは?
ブルーベリーさん:
📖ローマ 4章9節(口語訳)
さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。それとも、無割礼の者にも及ぶのか。わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
⬆️この幸福とは、4章5節の事を指すのでしょうか?
ドリアンさん:
4章7節および8節の「幸い」のことです。
📖ローマ 4章7-8節(口語訳)
「不法をゆるされ、罪をおおわれた人たちは、さいわいである。罪を主に認められない人は、さいわいである」。
質問⑦:4章14節の「信仰がむなしくなる」とは気持ちがむなしくなるということですか?
ブルーベリーさん:
ローマ4章14節
もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。
信仰がむなしくなる、約束が無効になるというのは、どういう事ですか?
無割礼の状態で義と認定されたから、全ての信仰の父となるアブラハムの子孫であり神の信仰者は、世界を治めよと神に言われているんでしたね。きっと、約束が無効になるというのは、筋が通らなくなるからですかね?
ドリアンさん:
律法を守ることで約束の相続人となれるのなら、信仰の出番がないので、役に立たなくなると言うことです。アブラハム、あるいは彼の子孫に対して、彼が世界の相続人になるとの約束がなされたのは、律法を通してではなく、信仰の義を通してであったからです。
ブルーベリーさん:
なるほど、虚しいというのは役に立たなくなるという事ですか💡
気持ちの話かと思いました。
以上、ローマ人への手紙4章前半の通読でした。
振り返り
後日の振り返りに出てきた話題です。
オリーブさん:
ローマ4章で、人が義とみなされるのは信仰によってであって、働きによるのではないと書いてありましたね。じゃあ、アブラハムは信仰があっただけで、何もしなかったのかといったらそうじゃなく、まずは神のお告げに従い、文化都市ウルを出て、不自由な遊牧生活をし始めます。それが75歳のとき。
で、それから、定住地を持たずに、ずっとカナンの地を遊牧生活をしながら行き巡ります。それが神のお告げだったからです。でもいろいろ大変なことがありました。
100歳のときに、愛妻サラとのあいだに子供ができます。イサクです😄。イサクがある程度大きくなったころに、息子を生贄にしなさいとお告げがあります。アブラハムはその通りにしようとします。神はギリギリのところで、アブラハムを止めます。彼が神のお告げにいつも従う姿勢に神は喜ばれます。
ゆばさん:
こんばんは、お疲れ様です🙆♀️
100歳の時って凄いですね~!
「ノア約束の舟」という映画を昔みたのですが、その中でアブラハムとイサクのオマージュがありました。
ブルーベリーさん:
あー、その話!
少し聞いた記憶あります☝️
アブラハムって、自ら考えて行動して何か痛い目にあったのかな?
もしくは生まれ持った気質で、相手のペースに合わせるタイプ???
と勝手な憶測をしてしまいます(笑)
オリーブさん:
遊牧生活をするって、ものすごく知力を使うと思います。ほぼ自給自足ですよ。自分で考えなければえ生活できないですよ!
ブルーベリーさん:
それもそうなんですけど、自分の生活ではなくて、他者とのコミュニケーションで痛手を負っていたら、素直に何でも聞いてしまうかも・・・
という話をしたら、話してくれたクリスチャンが≪もしそうだとしても、自分のようやく授かった子供を殺そうとはしないでしょ?!≫と言われたのを思い出しました。
オリーブさん:
そっかあ…自分の意思で神に従うことを選ぶのと、盲従してしまうのとでは違いがありますよね。
ブルーベリーさん:
そうなのです!
以上、振り返りでした。