悩み: 奉仕に参加していないと教会に行きづらいです

質問日:2020/2/19

悩み

キャベツさん:

教会には、礼拝に出るだけでも精一杯な方もいます
私も一時期そうでした
役員の皆さんの奉仕にはいつも頭が下がる思いですが、
ただ見てるだけの人、我々から恩恵を受けるばかり、という言葉にいつも、何もできない自分を責めて傷付いて来ました
私が教会に行けなくなってしまった理由のひとつです
日曜日は奉仕の日、という方もいれば、日曜日だけは心を休めて神様だけを礼拝したい日、という方がいても許してあげて欲しいです
生意気言ってすみません。

みんなのコメント

オリーブさん:

お気持ちよく分かるような氣がします。
少し違うかもしれませんが、

私は20代の頃に、もっと神にお仕えするという意味で自分を用いていただきたいと強く願っていました。
しかし、諸々の状況がそれを許さず、自分の望む仕方ではかないませんでした。
そんなときにジョン・ミルトンの言葉に出会いました。
「唯に立ちて待つだけの者も又仕えるなり」
40代で盲目になった彼が、失意の中で神に仕える方法を探し求める中で辿り着いた言葉だそうです。

「今は自分にできることがなくてただ待っているだけかもしれないけれど、そんな私のことも主はご自分に仕えているとみなしてくている」

そんなふうに感じました。

それぞれの立場で出来ることが限られていたとしても主は私たちのことを温かく見守ってくださると思います。

ドリアンさん:

@キャベツさん、、それでいいと思いますよ。神さまは、わたしたちに何か奉仕をして欲しくて、わたしたちを救った訳ではありません。わたしたちにキリストをエンジョイして欲しいだけです。享受して欲しいだけです。創世記でわたしたちを造ったのは、六日目です。その次の日は、安息日でした。それは、わたしたちに何か神のために働いて欲しかったのではなく、神を享受して神と共に安息して欲しかったのだと思いますよ。

マスカットさん:

私もそれでいいと思いますよ!よく例えで聞きますが、ベタニアの家は教会生活の縮図だと。働くマルタがいて、イエスの話を聞き入るマリアがいて、そしてそこにいるだけで復活の証しになるラザロがいる。それぞれ立派な奉仕です。何か作業をしなければいけないわけではないと思います。逆に、イエスは何もしないマリアをほめましたね。何もしてないように見えて一番重要なことをしていたからです。旧約で一番働いているのは祭司です。でも祭司の奉仕によって啓示されているクリスチャン生活のあり方について、私が教わったのは、祭司の一番の務めは神の前で神をエンジョイして、浸透されることだと。つまり、働くのではなく、神との臨在を楽しむ、恵みを一番受ける人になることでした。(ルカ10章、ヨハネ12章)

"さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」"
ルカの福音書 10章38~42節 聖書 新改訳2017

ぽんかんさん:

"すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」"
ルカの福音書 10章 25〜37節 聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

オリーブさん:

親切なサマリア人の話しですね。

ぽんかんさん:

これ、よく「善きサマリヤ人になりなさい」と解釈されますが、なんかどうもしっくりきません。
ここは、半殺しにされた人のように助けられなさいって意味なのではないか、と。
善きサマリヤ人(主イエス・キリスト)に来ていただき、かわいそうに思っていただき、近寄っていただき、傷にオリーブ油とぶどう酒を注いでいただき(聖霊)、包帯を巻いていただき(いやし)、歩いたりしないで家畜に乗せていただき、宿屋(神の家)に連れて行っていただき、介抱していただき(詩編23編!)、そこで介抱され続けなさい、と。
主は再び帰ってこられて、私たちの足りないところをさらに補うと約束しておられます。

あおくび大根さん:

これ、とってもこころにひびきました😢✨ただ、あわれまれ、ただ、助けられ、ただ、介抱され、ただ、贖われなさい。あっ、そういえばわたし、差し伸べられた主の御手に、抱きしめてくださる主の御腕に、しばしば、思い切り噛み付いてる!!!!!!という、威勢の良い反省ををを…🐍💦

ぽんかんさん:

わかります。似たようなところにいたので。だから、善きサマリヤ人=キリストってきいてその読み方に飛び付いたんです。

オリーブさん:

@ぽんかんさん、なるほど、そういう考え方もありますね。その上で、ご存知のように、当時ユダヤ人は隣国のサマリア人を異邦人とみなして、差別視していた。しかし同胞のユダヤ人ではなくそのサマリア人だけが強盗に襲われたユダヤ人助けた。この話を聞いていたユダヤ人にとっては頭をぶん殴らたようなショックを受けたとおもいます。真に隣人であるとはこういうことだとイエス様は教えようとなさったのだと思います。

あおくび大根さん:

あら〜‼️ぽんかんさんも、しんどいさんなのですかっ🐳✨🦐✨🐠✨

ただ、ひたすら、たすかりたい。
そのためには「ただ、たすけられる」必要がある…。
…もがいてしまうけれど。
今ももがいていることに、いま気が付きました、けれども!!
この、もがきつづける心を、そっと主の御手の上にのせる…そんな生き方がきっと「委ねる」ということなのですかねえ……
主に委ねる…というイメージを、初めてちょっと理解できた気がします

ぽんかんさん:

この箇所の直後にマスカットさんが引用された箇所が続きます。

「善きサマリヤ人になりなさい」という解釈では、真逆のことを言ってることになります。

自分の力で神のみこころを行おうとせず、善きサマリヤ人に助けられなさいと語ったのに、
マルタはちゃんときいていなくてバリバリ働きまくり、マリアを責めました。マリアは主の話をちゃんときいて言われた通りにしていました。この2つの記事は、主が語られたことと、それに対する反応として読むとはっきりしますね。

オリーブさん:

世話好きなマルタも好感度高いですけど😁

ぽんかんさん:

ルカは一貫して、なにもしなくていいから、ともかく主によって救われなさいってばって言い続けてます。

律法的なユダヤ人には違和感しかなかったはずです。
だから律法学者は主を試そうとして質問します。
主は質問に質問で返します。律法学者は即答しますが、
主は「わかってるんならやりなよ」って言います。
でも、できない内容なんですよね。だから「自分の正しさを示そうとして」さらに質問します。
エルサレム(神の平安)からエリコ(呪われた街)に下っていくのは、エデンの園を追われた人間です。
強盗に身ぐるみはがされて半殺しになり、あとは苦しみながら死ぬのを待つだけです。

「心を尽くし・・・」いや、そもそも無理

律法学者もレビ人も「心を尽くし・・・」としか言えないし、
自分たちも本当は強盗に半殺しにされてるのです。

主は、「ただ助けられなさい」
って答えます。

これこそ福音です

この本を書店で見つけて立ち読みしました。
はい、すみません。カンニングです。m(_ _)m

「よきサマリア人」の譬え―図像解釈からみるイエスの言葉 (細田あや子)

あおくび大根さん:

わ〜!
わたしもいつも、精一杯です🐜💦
みんなで大きな声で歌ったり、立ちっぱなしだったり、すこしだけ座ったり…しばしば具合が悪くなってしまいます。
信徒のつとめ、ではありますけれども、怯えてしまうというか…疲れちゃうというか…なかなか、この内的なつらさへの理解を得ることは難しく🐜💦

しかしまあ~それでも結構あんぽんたんなので、気楽にふわふわ浮いて過ごしています✌️笑笑

こうして聖書部の仲間として語りあっている…この場に、主がおられない、はずが、ありませ〜ん💫
特定の宗派もなく、教会組織に属しているわけではない、ただ「聖書」にむかって集った仲間のありがたさを感じます✨

ドリアンさん:

川で溺れる人を助けるときレスキュー隊は、まだ元気に「助けて~!」とか叫んで手足をバタバタもがいている間はわざと助けないと言います。精根力尽きて、黙って沈んでいく時にやっと近づいて助けるそうです。元気な内に近づくと、しがみつかれて、一緒に沈んでしまうからだそうです。

 

以上です。あなたも似たような悩みを持ったことがありますか?

少し参考になれれば幸いです。