エホバの証人の信者はなぜキリストを神と認めず、聖霊に人格があると認めないか?その驚愕すぎる事実。

キリストは神なのか?

「エホバの証人から長年聖書を学んでいた者です。彼らの教えから離れて、一般的に受け入れられる見方を知りたいです。聖書にキリストが神だとはっきりと書かれている部分とは、どこでしょうか?神の子だとおっしゃられている部分でしょうか?」

聖書部でこのような質問がありました。

普通の教会に通っている人はまず疑わないことです。だって聖書にはっきり書いてあるから。それに気づくために長年を要しません。少し読めばすぐにわかることです。

例えば下記の2箇所の聖句からはっきり分かります。

"それは、私たちの神であり主であるイエス・キリストの恵みによって、私たちの主イエスの名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためです。"
テサロニケ人への手紙 第二 1章12節 聖書 新改訳2017

"ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。"
イザヤ書 9章6節 聖書 新改訳2017
→イエスについての予言であるのは明らか。

聖霊は人格を持った存在なのか?

エホバの証人は聖霊が単なる神の力であり、神ご自身と認めません。つまり三位一体を否定しています。

しかし聖書ではどう書いてあるのか、見てみましょう。

御霊は禁止します

"こうしてミシアの近くまで来たとき、ビティニアに進もうとしたが、イエスの御霊がそれを許されなかった。"
使徒の働き 16章7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

御霊は祈ります

"同じように御霊も、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、何をどう祈ったらよいか分からないのですが、御霊ご自身が、ことばにならないうめきをもって、とりなしてくださるのです。人間の心を探る方は、御霊の思いが何であるかを知っておられます。なぜなら、御霊は神のみこころにしたがって、聖徒たちのためにとりなしてくださるからです。"
ローマ人への手紙 8章26~27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

御霊は教えます

"しかし、あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油がとどまっているので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます。それは真理であって偽りではありませんから、あなたがたは教えられたとおり、御子のうちにとどまりなさい。"
ヨハネの手紙 第一 2章27節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 御霊は悲しみます

"神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。"

エペソ人への手紙 4章 30節

聖書 新改訳©2003新日本聖書刊行会

聖霊はパースンであることがわかります。

しかし、エホバの証人が使っている新世界訳では、まったく人格が読み取れないように、書き換えられています。「御霊」と訳される箇所を「聖なる力」と訳しています。原文はプレブマであり、霊、空気、息などに訳されることができます。聖なる力にはなりません。

では、エホバの証人の独自の訳本「新世界訳」ではどのように翻訳されているのでしょうか?

【新世界訳】使徒の働き 16章7節

【新世界訳】ローマ人への手紙 8章26~27節

聖なる力は助けるし、願い出てくれるなら、人格を持っていると言えます。御霊の人格を否定することは、聖書に根本的に反することです。御霊の人格はエホバの証人が改竄しても隠しきれない事実です。

【新世界訳】ヨハネの手紙 第一 2章27節

確かに「油塗り」は王を任命するときの儀式ですが、それだけではありません。「選ばれていること」は偏った意訳です。文面読んでも何を言ってっているのかが全く分かりません。明らかに誰かが「教えている」のですから、それは隠しきれません。

【新世界訳】エペソ人への手紙 8章30節

「聖霊」を「聖なる力」に書き換えられていても、「聖なる力」は悲しむことのできる生きた存在であることを否むことはできません。

そうです。エホバの証人では、改ざんされた聖書を読んでいるので、普通のクリスチャンが当たり前のように信じていることが、分からないのです。改ざんを行った人たちや改ざんの事実を知りつつも教団に居続ける方達は、騙されたというより、騙しているとも言えます。本当にゾッとします。